2026.9.10
賃金上昇だけでは完成しない「好循環」
日本では賃金上昇が中小企業にも波及し、人手不足を背景とした構造的な賃上げ局面を迎えています。しかし賃金と物価のデータを分析すると、「物価→賃金」の波及は強まる一方、「賃金→物価」への波及は弱く、両者には明確な非対称性が存在します。さらに若年層では所得の多くが消費でなく貯蓄に向かっており、人口減少は賃金を押し上げる一方で国内需要の拡大を抑える「二面性」を持ちます。本稿では、賃金・物価の感応度データと年齢階級別貯蓄率をもとに、日本経済における賃金と物価の好循環がなぜ完成途上にあるのかを解説します。
賃金上昇は構造的なものへ
日本では賃金上昇が続いている。2026年6月の所定内給与は前年比3.0%増となり、生鮮食品を除く消費者物価の2.7%を上回った。事業所規模別にみても、30人以上で3.6%増、5人以上で3.4%増と差は小さく、今回の賃上げは大企業だけでなく、中小規模の事業所にも広がっている。
背景にあるのが構造的な人手不足である。日本では生産年齢人口が減少する一方、2010年代には女性や高齢者の労働参加拡大がこれを補ってきた。しかし、女性の労働参加率は2026年6月には77.8%に達し、追加的な労働供給によって人口減少を補う余地は従来より小さくなっている。労働需給の調整が「働き手を増やす」ことから「賃金を上げる」ことへ移りつつあると考えられる。
この意味では、現在の賃金上昇には一定の持続性が期待できる。しかし、賃金が持続的に上昇すれば、物価も持続的に上昇するのだろうか。
「物価→賃金」と「賃金→物価」の非対称性
この問題を考えるうえで興味深いのが、賃金と物価の相互関係を計量的にみた結果である。物価と賃金について、各時点から後方40四半期(10年間)のデータを用いて感応度をローリング推計した。感応度とは、一方が1%変動したとき、もう一方が何%変動するかを示したものである。
2026年6月時点で、食料・エネルギーを除く物価が賃金に与える「物価→賃金」の感応度は1.62まで上昇している。一方、賃金が物価に与える「賃金→物価」の感応度は0.58にとどまる(図表1)。
この非対称性は重要であろう。2020年代に入り、物価上昇を受けて企業が従業員の生活水準の維持や人材確保のために賃金を引き上げる経路は明確に強くなった。日本経済は、少なくとも「物価が上がっても賃金が上がらない経済」からは変わりつつある。
しかし、その逆方向はまだ弱い。賃金が上昇しても、人件費増加を販売価格へ十分に転嫁できなければ企業収益が圧迫される。「物価→賃金」が強まっただけでは、「賃金→価格→利益→賃金」という自律的な循環が完成したとは言えない。
では、「賃金→物価」の波及が弱いのは、企業の価格転嫁力だけが原因なのだろうか。もう一つ考える必要があるのが、企業の値上げを受け入れる家計の需要である。

出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査(確報)」、総務省統計局「消費者物価指数」よりSBI証券作成
※データはINDB Accelより取得
若年層の高い貯蓄率が示す需要の弱さ
そこで注目したいのが、勤労者世帯の世帯主年齢階級別の平均貯蓄率である(図表2)。2026年6月には、25~34歳で45.1%、35~44歳では45.4%に達している。一方、45~54歳では35.4%、55~64歳では35.7%であり、若年層の高さが際立つ。
長期的にみても、25~34歳の貯蓄率は2000年代には概ね30%前後で推移していたが、その後上昇し、足元では40%台半ばに達している。ここへ来ての賃金上昇の恩恵を受けている若い勤労者世帯で、所得の相当部分が貯蓄に回っていることは注目されよう。
賃金が上昇しても、その増加分の多くが貯蓄に向かえば、個人消費を通じた国内需要の拡大は限定的となる。企業からみれば、人件費は増える一方、それに見合って売上が増えるとは限らない。賃上げが続くことと、賃上げを起点として需要が拡大することは必ずしも同じではない。
この点は1980年代後半との違いを考えるうえでも重要である。当時との直接比較にはデータ上の制約があるものの、1980年代後半には所得増加や資産価格上昇を背景に旺盛な内需が形成され、企業の値上げを需要側が吸収しやすい環境にあった。これに対し今回は、資源・原材料高や円安による輸入価格上昇を起点に物価が上昇し、それを追いかける形で賃金が上昇した側面が強い。この違いは、「物価→賃金」の感応度が大きく上昇していることからも窺える(図表1)。

出所: 総務省統計局「家計調査(家計収支編)」よりSBI証券作成
※データはINDB Accelより取得
人口減少がもたらす「二面性」
ここに、人口減少がもたらす二面性がある。人口減少は労働供給を減少させ、人手不足を通じて賃金上昇圧力を強める。一方、同じ人口減少は国内市場の量的な拡大を制約し、企業の値上げを吸収する需要の拡大を難しくする。さらに、若年層を中心に所得の多くが貯蓄へ向かえば、賃金上昇から需要拡大への波及も弱くなる可能性がある(図表2)。
つまり、現在の日本では、「物価→賃金」は強まったが、「賃金→価格」と「賃金→消費」という二つの経路にはなお弱さが残っていると考えられる。本来の好循環には、賃金が上昇し、それが消費の増加につながり、企業が人件費増加を販売価格へ転嫁し、利益を確保し、その利益が次の賃上げにつながるという自律的な循環が必要である。
構造的な人手不足を背景に、賃金上昇そのものには一定の持続性が期待できる。しかし、物価上昇の持続性については別に考える必要がある。これから重要なのは、「賃金がどれだけ上がったか」だけではなく、「上がった賃金がどこへ向かうのか」であろう。
賃金を押し上げる人口減少が、必ずしも物価を持続的に押し上げるとは限らない。図表1が示す賃金と物価の「非対称性」と、図表2が示す若年層の高い貯蓄率は、日本の賃金・物価の好循環がなお完成途上にあることを示しているのではないだろうか。

佐治 信行(さじ のぶゆき) Nobuyuki Saji
SBI証券 経済企業調査部管掌執行役員
チーフストラテジスト・上席エコノミスト
専門分野は国内外マクロ経済(実物経済、金利・為替)。日経ヴェリタスアナリストランキング エコノミスト部門ではのべ16年にわたり第1位を獲得。 Institutional Investor 誌では17年連続。 1982年関西学院大学法学部政治学科卒業。同年、日興證券(株) (現、SMBC日興証券)入社。(株)日興リサーチセンターへ出向、証券調査部、事業調査部、経済調査部、投資戦略部。その後、1999年興銀証券(株)(現みずほ証券)、 2006年に三菱UFJ証券(株)(現三菱UFJモルガン・スタンレー証券)、2018年5月ニッセイアセットマネジメント、2024年9月株式会社SBI証券に入社。
Nobuyuki Saji, Chief Strategist and Economist
Mr. Saji specializes in domestic and international macroeconomics (the real economy, interest rates, and foreign exchange rates). He has ranked No. 1 in the Economist category in the Nikkei Veritas analyst ranking for 16 years in total and has also been ranked in the Institutional Investor survey for 17 years in a row. Mr. Saji graduated from the Department of Political Science, School of Law and Politics, Kwansei Gakuin University in 1982, and joined Nikko Securities (currently SMBC Nikko Securities) in the same year. He was transferred to Nikko Research Center, where he worked in the Securities Research Department, Business Research Department, Economic Research Department, and Investment Strategy Department. Mr. Saji then joined IBJ Securities (currently Mizuho Securities) in 1999, Mitsubishi UFJ Securities (currently MUMSS) in 2006, and Nissay Asset Management in May 2018. He joined SBI SECURITIES in September 2024.
※このコラムに関連した経済データは、「経済統計データベース」INDB Accelで最新値の確認・時系列分析が可能です。
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